-第7章- 情報の流通にもたらされた衝撃(2)

    遠隔教育

【ヴァーチャル世界のキャンパス】

− 遠隔教育

 権威による情報伝達という意味では、大学等の高等教育機関もインターネットによる変革を迫られている。
 大学審議会答申「グローバル化時代に求められる高等教育の在り方について」は、インターネット時代の大学教育に関して以下のようにまとめている。

 「インターネット等の情報通信技術は、知識や技術の新しい伝達手段として大きな可能性を有するものであり、その活用により、学生が必要なときに情報を引き出して自らのペースで学習を進めたり、電子メール機能等を活用して適時に教員との間や学生相互で意見交換を行ったりするなど、学習者主体の学習を促進することが出来るものと考えられる。

 今後はこうした状況等を踏まえて、通信制の教育において遠隔授業により修得することのできる単位数を見直すとともに、インターネット等活用授業を遠隔教育として位置付ける方向で通信制および通学制の授業方法を見直すことが適当である。  なお、今後の情報通信技術の進展を踏まえつつ、将来的には、卒業に必要な単位をどのような形態の授業方法により修得させるかは、各大学の教育方法の選択の問題としてとらえることとし、通学制と通信制の区別の在り方について見直す方向で検討することが必要である。」

   イメージが湧きにくいので、大学自体がその生き残りを賭けて、戦略的にインターネットを利用しているハーバードロースクールの具体例を挙げよう。

 そのほとんどがハーバードを卒業し、かつ博士号を持つ一〇〇人近いネットワークサポートの職員の下で、ロティセリ(回転式焼き肉機)の名前を持つツール(ソフトウェア)が開発され、ロースクール全体で使用されている。

 目的は「共に学び合う環境の中で、すべての人が使うことができ、それ自体が文化の一つとなり得るようなツールとして、ウェブサイトを簡単に作ることが出来るようにする」ことにあり、「学習内容をウェブサイトに載せるだけではなく、それに附加して、学生同士、学生・教員間の議論がなされるようにしてある。講義前に利用した場合、講義がより有益なものとなる」と評価されている。

 印象的だったのは、「どこでも、いつでも、誰でも使えるツールとするためには、市販ソフトではなく、ツールソフト自体を自ら作成する必要がある」としている点で、「世界中の人が参加可能な開かれた大学となりうる」よう考えられている。

 ウェブコンテンツ(ホームページの中身)は、九割が職員と学生(ロースクールの!!)の手で作られているという。

外見は通常のウェブサイトで、講義用の資料・シラバス等を提示している。さらに、これにマルチメディアが組み合わされていて、小さいながら録画された講義を見ることができる。一つのフレームは掲示板機能を持ち、そこで学生同士がスタッフの指導の下でオンラインで議論できるようになっていて、活発な議論が展開されている。他のフレームにはチャット機能があり、オフィースアワー(教授等のスタッフが必ず接続している時間)には学生と教員がチャットで質問や相談が出来るようになっている。

 こうなると、学生は必ずしも大学の教室に出てくる必要はなくなり、自宅からオンラインでもすべてを学ぶことも出来るようになる。事実、一部の教員は学生の教室への出席を義務とせず、オンラインでの発言と内容で成績を付けるという。一発勝負の試験と違い、全員の目にさらされた発言・報告であるため客観的であり、成績に対する苦情が減ったと肯定的に評価されている。一般学生の出席は三〜四割程度減ったというが、出席学生はオンライン上の議論を踏まえた上で議論できるため、より充実した講義が出来る様になったという。

 インターネット上で、その双方向性を生かして、大学の講義がそのまま展開されるようになると、大学のキャンパスがインターネットに広がっていく。これを「遠隔教育(原語は、Distance Learning)」として、積極的に活用していくことが大学に求められている。アメリカでは、ハーバードだけでなく、全米三〇〇〇以上ある高等教育機関の七二%が、何らかの形で「遠隔教育」を進めているという。

 一見すると「通信教育」に似ているが、いくつかの決定的な違いがある。

(1) インターネットの「双方向性」を利用して、「情報交換」だけでなく、学生間の「意見の交換」が図られている。
具体的には、上に紹介した掲示板上の討論である。
(2) 「対面教育」と「遠距離教育」の結合・一体化が図られている。
対面教育(通学学生)の補強のためにウェブページが使われると同時に、遠距離教育を対面教育の延長・拡大として捉えている。教材も同じものを使っており、ある学生が対面教育の学生か遠距離教育の学生か、知る必要がないとする教員もいる。
(3) 例えばスイスの大学とのリアルタイムの共同授業を開いたり、オランダの大学とヴィデオコンフェランスを行ったりと、空間的距離を無視するインターネットの特徴を生かした教育を取り入れている。

 いわゆる通信教育ではなく、むしろ、現実のキャンパスがヴァーチャルな世界に拡大したと見るべきである。

【消えゆく大学?】

− 社会に与える影響

 このような遠隔教育が進展していくと、学生は、インターネットに接続したコンピュータさえあれば(いや、コンピュータである必要もないのだが・・・)、いつでも、どこでも、好きなときに講義を受けることができる。実験・演習科目はともかくとして、講義形式であれば、大学の施設もあまり意味のないものになってくる。現にハーバードには、海外の遠隔教育学生も居る。わざわざ留学しなくても、同じ教育を受けることができるのである。もちろん学友を得る等、物理的に同じ場所で得られるものも多く、既存の大学がすべて完全にヴァーチャルな大学に置き換わるとは考えていないが・・・。)

ハーバードのビジネススクールでは、スタンフォード大学と提携し、トップビジネスマンのためのオンライン学習(E-Learuning)システムを作成した。
 個人のニーズに合わせ(personalized)、実用的な(practical)、最高水準の学習の機会を提供することを目的とする。すべてのプログラムは、インターネットで提供され、いつでもどこでも利用することができるという。ビジネスマン個人あるいは、企業研修としても利用可能な形を取っている。
 この本が出来上がるころには、日本でも展開されている予定である。企業からハーバードビジネススクールに派遣するまでもなく、インターネットで日本に居ながら講習を受けることができるようになる。

− 大学の意義

 遠隔教育が進展していった場合の高等教育は、一体どんな姿になっているのだろう。単位認定、学位認定の問題は残る。その意味では、大学自体は残ることになるだろう。しかし、もし現在の単位の互換性・相互認定が進展していけば、場合によっては、好きな大学の好きな教員の講義を取ればよいという時代が来る可能性もある。そうなると、大学間の競争ではなく、各教員の講義間の競争になるかもしれない。

 また、大学を「一流の情報」の伝達機関だと理解すると、情報の供給主体は大学である必要もなくなる。アメリカの一流大学の危機感は、他大学との競争ではなく、出版者や研究所がオンライン教育に乗り出してくることにある。

 さらに次世代CPUの高速化したパソコンでは、翻訳・通訳ソフトもかなり充実したものが出てくるだろう。国境を越えて、名教授の名講義を日本語で受けることができるようになるのかもしれない。

 全くの夢物語に過ぎないが、過去五年間のインターネットとコンピュータの進展を考えると、あながち遠い夢ではないように思われる。そのときに日本の大学の講義は、どれくらい生き延びることができるのだろうか。