-第1章- インターネットは「無法地帯」か?

    「ポルノ規制」の考え方

 新しいメディアや技術が出ると、必ずといっていいほどまず欲望産業が取り入れるようだ。ヴィデオしかり、ポラロイドカメラしかり、ポルノCDしかり・・・。
 そしてまた、そのおかげで普及に弾みがつくようで、人の欲望に枠をはめるのは難しいようだ。
 インターネットがマスコミの注目を浴びるようになったのも、ポルノ画像の問題だろう。特に、アメリカで一九九六年にインターネット上のわいせつ情報を禁じる通信品位法を可決したとき、さらに、一九九七年六月に米最高裁が「同法は言論の自由を侵す」と違憲判決を下したしたときは、インターネット上の表現の自由と法規制という問題として、さまざまなメディアに大きく採り上げられた。ご記憶の方も多いと思う。
 日本では「わいせつ文書図画等頒布罪」刑法175条があり、わいせつな文や画像を多くの人の目に触れるような形で展示したり、配ったり、販売したりした場合処罰される。(販売するつもりでなく、単に持っているだけでは犯罪にはならない。)
 この法律で、有名なものとしては、永井荷風作といわれる「四畳半襖の下張り」や、D.H.ローレンス作の「チャタレー夫人の恋人」といった小説、大島渚の「愛のコリーダ」といった映画が取り締まられ、裁判になった。もちろん、「芸術かわいせつか」「表現の自由か道徳秩序か」といった問題が裁判で争われるような事件以外にも、いわゆる裏ヴィデオのように単純なわいせつ物で取り締まりを受けるものは非常に多く、違法にされることにより、逆に違法行為を生業にする団体の資金源になっている。
 アメリカやヨーロッパの国々では、表現の自由の観点からポルノが解禁され、映画でも写真でもぼかしのないもの買うことができる。それなのになぜインターネットだけ通信品位法で規制されるのか不思議に思う読者が居るかもしれない。少し説明を加えよう。
 生活してみるとよくわかるが、確かに欧米ではポルノが解禁されている。
しかし同時に目にしたくない人や子供からは隔離されている。見たい人がポルノショップ等特別な場所へ行って購入するものであり、子供の目や手に触れるところには置いていない。内容としての表現の自由は守るが、流通の仕方を制限して、見たくない人、見せてはいけない人の立場も守るというやり方である。年齢は、パスポートを兼ねた身分証明書の携帯が義務付けられているため、すぐに判るようになっている。(日本も、市役所等で簡単に身分証明書を発行するようにしてはいかがだろう。いまどき海外渡航など珍しくもなく、そのためだけの恐ろしく高いパスポート代を払うのはばかげているし、パスポートも免許証もない人にとって便利なのだが。)
 日本の場合は、表現内容自体を規制する代わりに、流通に関しては、いわゆる有害図書の指定を除きほとんど制限がない。結果として、かなりきわどい図書まで子供が手にすることができる。見たくない人の目に触れてしまうと同時に、見たい人は法によって違法とされているものに手を出すか、規制のない国へ旅行するしかない。
 ところが、インターネットにつながったパソコンさえあれば、日本に居ながらにして、日本以外の情報に触れることができるようになってしまった。インターネットの特質として空間を無視する点を挙げられる。世界中どこに居ようと、ネットワークでつながっている限り、瞬時に相手のコンピュータと(ほとんど)無料でつながってしまう。例えば、日本で違法なポルノ画像も、合法な国に置かれたウェブサイト(マスコミのいうホームページ)へつなげば、いとも簡単に見ることができる。法律はひとつの国単位で作られ、その中で通用する。ところがインターネットはこの国境を軽々と越えてしまう。情報をどこの国のサーバに置いてもかまわないのだから、ちょうど、お金がタックスヘーブンと呼ばれる税金の安い国に集まり、いわくつきのお金が捜査機関にも素性が明かされにくい国に集まり、船の船籍が税金の安いパナマに集まるように、ある国で規制されれば規制のない国へ移ってしまう。

 問題点を整理しよう。ここでは二つに分けて考えてみよう。

・自由で自主的な運営がなされてきたインターネットは規制になじむのか。
・ポルノや暴力等、青少年に有害な情報をどう規制するか。